小学生で不登校!?~大人と子どもの発達障害~

小学校2年生で不登校になり、3年生で支援学校に一時転籍、そこでひどい体験をして元の学校に籍は戻ったものの、それっきり一度も登校していない娘(現在中3)と、42歳にして娘とともにアスペルガー症候群と診断、46歳でADD(注意欠陥障害)も加わった母の道のり。

障害福祉について

不登校と福祉サービスについて思うこと


いまだに時々思うのですよ、もし娘が不登校になってすぐの2年生のときに受けた発達検査で「発達障害」と診断されていたらどうなっていたのだろうと。
数値の凸凹ははっきりしていて、今の私から見たら(当時は発達障害という思い付きは全くなかった)「これは発達凸凹さんだよ。診断してよ」と言いたいところですが、実際は2回目の検査をした4年生でASDと診断されました。


最初の段階に診断を受けていたら支援級に移ってうまくいっていたかもしれない、デイサービスを利用してみようと思ったかもしれない、完全に心を閉ざす前の娘なら可能性があったかもと思わずにはいられないのです。

もちろん、こんな考えは「たられば」に過ぎないし、考えても詮無いことは百も承知ですが。
それに、障害福祉サービスや発達障害について詳しくなったのは、娘が診断された2年後に自分も診断され、その2年後に幸運にも障害福祉サービスにつながってからですし。


でも実際に診断を受けたときにはすでに娘は家に引きこもっており、支援学級入りは拒否。
私しか受け入れず、家から一歩も出ない生活になっていました。

万が一の時のためにファミリーサポートセンターで事情を話して、いざというときに預かってくれる相手は確保していましたが、きっと娘は行けなかっただろうと思います。
デイサービスも無理だったでしょうね。


それより、私は親を支えるサービスが欲しかったです。

主治医が熱心な方で、私も精神疾患を抱えていることを知ったうえで(私が発達障害と診断されたのは娘のさらに2年後)親子で入院させてくれたり、特別支援学校の訪問指導を利用したり、本当に私の状態が悪くなったときは一時保護も提案してくれました。

一時保護は断り、入院して特別支援学校の訪問指導を利用することを選び、その結果残念ながら娘の心は完全に折れてしまったのですが、それは主治医の責任ではありませんからね。
不適切な指導をする教師はどこにでもいたということです。


あのころ今みたいに週に何回かヘルパーさんが家に入ってくれていたら、どれだけ家に新鮮な風が入ったことでしょう。
疲れ切った私の心と体は癒されたことでしょう。


子どもが不登校になりたての頃って本当に親は混乱するし、精神的にも、肉体的にもボロボロになってしまいます。
私の場合は約1年半くらいひどい状態が続き、「二人で誰も知らないところへ消えてしまいたい」、「一人で死んでしまいたい」とよく考えていました。
娘にもあたってしまい、正直「これは虐待だな」と思ったこともあります。(何とか手はあげなかったけど)


だから、子どもの障害の有無にかかわらず、不登校など親子関係に行き詰ったときに福祉的な目線で親を支えるサービスがあったらいいのにと切に思います。
学校からは教育サポートセンターを紹介されますが、うまくいかない例を多く聞きますし。
あれは学校サイドに立ったものですからね。

不登校対策として政策を立てるのならぜひ検討してもらいたいと思います。

高校生から療育を受けるのは可能なのか?

しばらく間が空いてしまいました。

お正月は親子で仲良く体調を崩して自宅でまったりと過ごし、ついに一日も実家に帰らないという偉業を達成しました。娘は「会いたくない人に会うくらいならお年玉はいらない」と今年はきっぱりと言っていたので、まぁいいお正月だったのではないでしょうか。


さて、世間も動き出したのでさっそく娘の療育施設探しを始めています。

最初は主治医のアドバイス通り保健福祉センターに電話したのですが、「就学前の児童の療育の相談なら受けていますが、大人の精神についてはうつや統合失調症などしか受け付けていません。発達障害のことは分かりません。」と言われてしまいました。

「市役所の障害福祉課に行ってください」とのことだったのですが、そこでもおすすめの施設というのは教えてもらえないらしく、とりあえず先に調べてあった施設に電話してみることに。


まず1軒目。個別対応をしていて評判もいいと聞いていたので期待していたのですが、希望者が多く待機になるということで、「発達障害者支援センターに相談されることをおすすめします」と言われてしまいました(待機の列には入れてもらいました)。

その電話で聞いたのですが、高校生まで療育を受けていったん大学に行ってまた違う形で支援を受けに戻ってくるケースもよくあるのだそう。
大人向けには生活介護や自立訓練、就労移行支援などといったメニューがあるみたいだけど、この辺りはまたよく調べてみる必要があると思いました。


次に2軒目。基本的には中学生までで、高等部を創設するか検討中とのこと。そこも生活介護や自立訓練といった大人向けの支援もやっているそうです。うちの事情を話すと「不登校も長いし、集団とのブランクの長さを考えると対応の仕方を考えなくてはいけませんね。月1回くらいから始めてまずここが自分の居場所だと思ってもらわないと。」と言われ、「あ、なんだか理解がありそうな気がする」と思いました。

まず娘を受け入れられるかどうかを施設内で話し合うそうです。
娘自身がそこを受け入れられるかという問題もありますし。


それにしても、小2から不登校で高1の現在も安定して通学はできていないという状況で果たして療育に通うことはできるのか?
受け入れ先はあるのか?

だいたいこんな例ってあるのか???

さすがに不安でいっぱいですが、今までやってきたように精一杯手を伸ばしてより良い支援をつかみ取っていきたいと思います。

「助けて!」と声をあげるのって本当に大事だと身に染みていますので。


発達障害者は社会とのつながりを持つのが大変だけれど

今日はソーシャルワーカーさんとの面談でした。

今回は「社会とのつながり」についてがメインの話に。


自立支援という言葉がありますが、国がいう自立支援というのは「障害があっても働けるように」というニュアンスをビシバシと感じます。
だけど、ソーシャルワーカーさんが考える「自立」というのは支援を通じて社会とつながっている状態のことなんですって。社会とのつながりは当事者にとっての杖であり命綱になるというのです。


一番小さな社会は家庭といいますが、今は単身者が増えています。
障害もなく会社に勤めながらシングルライフを送っている人は、気楽で快適な生活を送っている人も多いですよね。
だけど、会社を退職するとひとりになります。それでもまだお金や体力があるうちは楽しく過ごすことができるでしょう。

問題は60代くらいになりお金も体力もなくなってきたとき。その時に社会的つながりがないと孤独に陥ってしまいます。そうなると心が萎えてきてしまい、お酒におぼれたりする人も。
確かに定年退職して地域や趣味のつながりもないという人に、そういう人がよくいるなぁと思いました。


定型発達の人でも社会とつながりを持つのは面倒くさいことなんだそうです(え、そうなんですか?とびっくりしました)。定型発達の人でもそうだということは、人間関係の構築に困難がある発達障害を持つ人にとってはそれがいかに大変かというのは容易に想像がつきます、というか実感しています。

だから、社会とのつながりを持つのが大変な人には支援が必要なのです。
それは発達障害者に限らずですが。

だけど、そんな人たちの中で自ら支援を断ち切ってしまう人がたくさんいます。それはセルフネグレクトに一直線につながってしまうのに。

参考サイト:
NHK なぜ普通の人が? “セルフ・ネグレクト”

「私にはそんなものは必要ない」「煩わしい」そんな気持ちで支援を断ち切り孤立してしまうのは危険なことだなと感じました。そんな人こそ生きづらさが強いのではないのかなと私は思いましたけど。

無縁社会

新品価格
¥1,311から
(2018/6/12 22:29時点)



ソーシャルワーカーさんと一緒に私の社会とのつながり図を書いてみました。

自分を中心として放射線状にお医者さん、ヘルパーさん、相談支援員さん、娘の学校の先生など思っていたよりたくさんの人とつながっていました。

「たくさんある方がいいんです。それを時々見て”ひとりじゃない”ことを忘れないでください」って言われました。

医者通いは面倒くさいし、正直しんどいときはヘルパーさんに来てもらうことが煩わしいときもあります。

でも、面倒くさいけど自分で折り合いをつけて断ち切らないことが大切なんです。時にはサボってもいいから細く長く自分なりの距離感を見つけていくこと。


今でもふと思う、「私が支援を受けていていいのだろうか?」の一つの答えを見つけることができたいい面談になりました。

障害者として生きると決めて。2年目の道のり。(後半)

今回は以下の記事の続きです。 2017年 

7月

月初めから約3週間、糖尿病の教育入院。味が薄くて少ない食事に泣き、検査につぐ検査でめげそうになり、医師・薬剤師・検査技師・看護師・栄養士からの講義で勉強漬けの日々。でも同病の仲間にたくさん出会い、隠れ食いの奥義も教わり楽しかった(しなかったけど)。
発達特性のためか検査に行っては道に迷い、いつまでたっても血糖値測定の手順を間違い、スケジュールは何度も確認しないと頭が混乱する。
入院中の個人栄養指導に相談支援員が来てくれる。その内容を介護事業所に申し伝え、ヘルパーさんにできるだけ希望に沿ったメニューを作ってもらうことに。(糖尿病食は頼むことができない)
お見舞いはケースワーカーのみ。

娘は私の母のところで「楽しい夏休みを過ごした」そうで、一度も見舞いに来なかった。(バスに乗れないので)後半になって「いつ退院できる?」とメッセージを打ってきたのはかわいかった。

退院してからは食生活の激変に耐えられず何度もキレてしまう。
主治医のところに社労士と一緒に行き診断書を受け取った。さっそく中身を確かめるとなかなかに壮絶な内容で「よし」と拳を握りしめる。社労士も「これは2級相当の内容やなぁ」とうれしそう。
毎日のように頭痛が続く。

娘に初めて安定剤が処方される。電車に乗る恐怖をやわらげ通院することが行動療法になるとのこと。

8月

相変わらず体調は悪いが、ヘルパーさんの食事で血糖値が劇的に改善する。
ヘルパーさんが来ている間、私は掃除機をかけるのが日課になっているが、この辺りでは体調が悪く布団に寝たままのときもあった。「ゆっくり寝てね」と言ってもらえるのがありがたい。
他人がいるときは掃除に過集中しないですむのでわりとラク。
娘が薄味につきあうのがつらそう。

9月

今年も去年と同様に時々原因不明の熱が出る。主治医は「原因は無限にあるからね~」とのこと。
娘は今月は調子がよく、フリースクールにも数回行くことができた。
血糖値が正常域に戻る。栄養士さんにものすごくほめられ、知人にも「やせたね」と言われて気分があがる。でも、時々狂ったように菓子パンを大量に食べたくなる。ものすごい衝動。

10月

だんだん気分の波が自覚できるようになってきた。社交的な場に出ることが続くと疲れる。あとやはり食事制限がずいぶん堪えているようだ。イライラ、落ちこみがひどい。主治医が言うには「あまりにも律儀に制限を守りすぎている。すこしずつ気を抜けるようになっていけたらいいね。」とのこと。一度崩すと全部崩れてしまいそうで怖い。

ものすごい頭痛が続く。でも娘は調子が悪いと外出もできず代わりに医者に行ったりと動かなければならない。つらくてキレてしまって自己嫌悪というパターン。自分の臨界値を超えてる感じ。
娘につきあって自分の生活リズムが無茶苦茶になり、だけど自分だけはある程度社会生活を送らなければならないのがつらい。

娘の安定薬が決まり、娘の主治医に「気分が乗って体調のいい時に行動療法しましょう」と言われる。
月末あたりはまた機嫌が悪い日が続き、娘に「もう限界?」と気遣われる。食事療法がつらすぎる。

11月

主治医に「食事のストレスでメンタル壊れた」と言うと、「糖尿病の病院をメンタルの病気があることを理解して、食事指導ができる病院に移ったほうがいい」とのアドバイス。数値が改善されてから、大病院から紹介元の地元の内科に帰されていたので、素直にアドバイスに従おうと思った。あと、糖尿病があると使える薬が結構減るそうだ。「調子がいいときはやれると思ってもセーブすること」との指導が身に染みる。

8月から販売店のミスで新聞がまともに入らない状態が続いていて交渉などにストレスかかりまくり。
また家事の段取りを考えているとイライラするということに気付いた。

娘と一緒にフリースクールで漢検を受ける。二人とも合格。

いきなり大きなうつの波が来る。娘がヘルパーさんの料理をあまり食べず冷凍食品ばかり食べている。気持ちはわかるだけに「私がこんな病気になるから悪いんだ」と精神的に追い詰められる。娘は「ヘルパーさんはママのための支援だ」とわかっていることに驚いた。彼女の方が大人だ。

高校の願書を書きに中学に行く。
娘、フリースクールに行かなくなってきた。そんな日が続いていると、目の血管が出血して、ひどいじんましんがでて、丸くならなければやり過ごせないほどの腹痛に襲われる。どうやら娘の高校受験(主に作文)が難航しているのが原因かと思われる。
それでも次の週には何とか散髪に行き、証明写真を撮ることができた。中学の先生に作文も見てもらう。

12月

1日に娘高校受験する。即日合格。
娘、鼻炎を気にしすぎて点鼻薬を使いすぎ、耳鼻科で「もうこの腫れは収まらないのでレーザー手術を薦めます」と言われる。
また娘がヘルパーさんの食事を食べないことでキレてしまう。同じことを繰り返していてイヤになる。
またひどい頭痛が続く。先月から時々心臓がキューッと痛くなる。

相談支援員によるモニタリング。「あなたはとても頑張っているし、娘さんのこともちゃんと考えているから、出来てないと思わなくていい」と言われる。週1回の移動支援を家事支援に変更。掃除や整理整頓にあてることにする。

娘、風邪をこじらせぜんそく気味に。怖がってパニックを起こし安定剤を自分で飲む。私はずっと寝ずにつきそう。6年ぶりに赤ちゃんの頃から通っていた喘息に強い小児科に行く。喘息ではなかった。
だけど、この風邪がきっかけで咳や鼻づまりなどの不快感に異様に敏感になり、医者にばかりかかりたがる。食べ物を食べるのも怖がり安定剤も毎日のように服用している。年末にかけて自分の病院に加えて、娘がかかりたがる内科、そして安定剤が切れそうなので年内最終診察日に小児精神科の予約をねじ込んで薬をもらいに行ったりとノイローゼになりそうなくらい忙しかった。娘には不安神経症の診断がすでについていた。こうなるとどうしても自分のメンタルも不安定になるのでつらい。



こんな感じの一年でした。
書いていてつらいものがありますねぇ。でもまとめておくと後で助かるのです。

娘のこんな一言が見つかりました。
「私は小学校で学校をやめてよかった。家にいられてハッピーでよかった。スタートをあの高校に決めてよかった。不登校してても勉強したい人、やり直したい人がくるところだから。」

ちょっと苦労が報われたかも。


障害者として生きると決めて。2年目の道のり。(前半)

前の仕事を辞めるとき、「もうこれ以上普通の人としてやっていくのは無理だ。障害者として生きていこう」と決意したのが2015年10月のこと。早いもので、2年4カ月たったのですね。
無職になってから2年が過ぎたんだなぁと思うと感無量です。ざっくりと2年目にあたる2017年はどんな一年だったのか、今年も振り返ってみたいと思います。


2017年

1月

元旦から弟と母に「これから働きもせずにどうするつもりだ」と責め立てられる。
たっぷりと亡くなった父の年金を受け取っている母は、「あんたのような障害者にもお金を出さなければいけないなんて国も大変やなぁ。老人も大変なのに。」と言う。どの口が言うんだろうね。

成人の発達障害を診ることができる病院を相談支援員に紹介され受診する。
療育手帳は絶対無理だとそこの医師にも言われた。
診断としてはアスペルガー症候群とADHDの不注意優勢型だとのこと。双極性障害の傾向もあるが、それは特性によるものだろうとの見立て。

年金の申請はうまくいかず非常に悪い状況。何度も社労士と打ち合わせるが泣きそうになる。

去年末からの支援体制の悪化、相談支援員への不信感もあり、ソーシャルワーカーと個人契約を結ぶ。
そういうケースは珍しいらしく相談支援員も市の障害福祉課の職員も「どういうことですか!」という剣幕で連絡してきた。何度もメールや電話攻撃を受けた私はパニック状態になり、ソーシャルワーカーに丸投げする。
ソーシャルワーカーが調整した結果、相談支援員が所属していた相談支援事業所との契約を解除し、市内でも凄腕で有名な相談支援員のいる相談支援事業所に乗り換えることに。

娘も絶不調で「ママが別の人にすり替わっているように見える」と何度も訴える。

2月

精神状態が激悪化。娘に「もうつらいから、ママカウンセリングを増やしてもらって」と言われる。
生活リズムもむちゃくちゃで睡眠時無呼吸症候群の治療器具C-PAP(酸素マスクみたいなもの)をつけるとうまく眠れない。
母と一緒に療育手帳の検査を受けに行くが、その日のうちに「IQが高いので無理です」とその日のうちに落ちる。
ソーシャルワーカーと一緒に新しい相談支援員と面談。ヘルパーの派遣事務所も変更になる。

前の事業者は、ヘルパーさんに加え責任者の女性が「発達障害の勉強のために」と毎回ついてきて、責任者は黙ってみてるだけか、ヘルパーさんと二人でしゃべったりするのでストレスがいっぱいだった。1回3時間で月2回、前半は部屋の整理と買い物、後半が料理で、どちらも「いつか自分でできるようになるように頑張らなくちゃね」と手伝いを強要されるのもつらかった。
ただでさえも人と接するのがしんどい時期に、女性が二人3時間自宅にいるという状況が利用者にどれだけの負担を与えるのかわかってほしかった。「やってもらってる」と思うと、苦情は言いにくかったし。

それをソーシャルワーカーと新しい相談支援員に話したら二人ともびっくり。今までのやり方の方が異常で、通常はもっと利用者に負担がかからないものだと聞かされて、「支援ってしんどい」と思っていた私は「今度は大丈夫かな」と期待をしつつもまだちょっと不安な気持ち。

3月

精神科の薬がガラリと変わる。先生「何で抗うつ剤を出してたんだ」とブツブツ。ストラテラ服用開始。
新しいヘルパーさんがくるように。
今度は、おしゃべりして人との関係に慣れること、私の負担を軽くしていくことが目的なので、前に比べてウソみたいに楽になった。
1時間半身体介護で、30分家事支援。実際には2時間、ヘルパーさんが料理をしてくれるのを椅子に座ってみながらおしゃべりしたり、肉を解凍したりとごく軽いお手伝いをするくらい。そのおしゃべりがとてもストレス解消になる。頻度はとりあえず月2回。
支援体制が落ち着いたせいか、メンタルはかなり楽になってきた。

去年の3月から始まった学習支援、娘の高校卒業まで続くはずが先方の都合であっけなく打ち切られる。
ソーシャルワーカーのすすめもあり、娘の児童精神科を、大人の精神科もある発達障害に強い診療所に転院する。
打ち切られた支援の代わりに支えてもらうのと、障害者手帳取得や年金申請に備えるため。大人になっても継続して診てもらえるのも安心。
支援の打ち切りにそれほど動揺せずに済んだのはソーシャルワーカーのきめ細かい支えが大きかった。
月末、母が救急搬送されるが大事に至らず。

4月

娘のパソコン買い替える。
娘の学校に支援が打ち切られたことを話し、今後のことを相談する。
その件で他の人ともやり取りをしなければならず、精神的な負担を感じた。
ヘルパーさんに慣れてきたので、週1回来てもらうことに。

5月

母と社労士と一緒に主治医のところへ。診断書をこの医院で書いてもらう準備。
体調が悪く寝込む日が多い。「起きたくない」という気持ちが強い。
娘と電車で1時間半のところに出かけるが、帰りに娘の具合が悪くなり救急車で搬送される。
ヘルパーさん、週2回に。1日は移動支援で運動のつもりだったが、時間が足りないので買い物支援になる。
相談支援員が自宅に来てアセスメント。
イライラしたリ心細くなったりとメンタル安定せず。

娘と通信制サポート校の見学に行き、そのままそこのフリースクールに入学を決める。
月末にかけてかなり忙しい日が続いていた。

6月

担当ヘルパーさんが二人になる。ヘルパーさんが休んだとき、その二人のうちのどちらかが来るように(慣れない人が急に来ることがないように)という配慮で、どの利用者にもそのようにしてるそうだ。新しい人もいい感じで馴染めそう。だいたい交互に来るようになった。

不安神経症、強迫神経症の症状が出るように。主治医には「長い間ムリしてきて今の症状があるのではないか」「疲れが出ないようにする力加減を自分で探っていくように」と言われた。
また「ストラテラ効いているか自分ではわからない」と言うと、「気分の波もあるので本人にはわからないですよ。私が見ていきますから」と言われた。どうも忙しすぎると精神の調子を崩すようだ。

内科の主治医に「糖尿病の検査結果がとても悪いので入院が必要です」といわれる。ものすごいストレスとショック。大病院に検査を受けに行くとやはり即教育入院を言い渡される。
入院の準備やそのための病院巡り、長期間留守にする用意で忙しいところに親からも頻繁に電話で干渉されてキレそうになる。精神症状はますますひどくなる。
Twitter プロフィール
42歳でアスペルガー、46歳で加えて注意欠陥障害と診断される。娘はアスペルガーで小2から中3まで不登校を通した末、今春から通信制サポート校に入学。「小学生で不登校!?」ってブログやってます。
記事検索
LINE読者登録QRコード
LINE読者登録QRコード