小学生で不登校!?~大人と子どもの発達障害~

小学校2年生で不登校になり、3年生で支援学校に一時転籍、そこでひどい体験をして元の学校に籍は戻ったものの、それっきり一度も登校していない娘(現在中3)と、42歳にして娘とともにアスペルガー症候群と診断、46歳でADD(注意欠陥障害)も加わった母の道のり。

おすすめ本

「子どもを信じること」を読んで

このごろ秋らしく読書にハマっています。

ツイッターで話題になっていて欲しくなり電子書籍で買ったのがこの本。
電子書籍では2,000円です。

「子どもを信じること」 田中 茂樹 



著者の田中先生は、脳科学者/医師/臨床心理士/四児の父親/少年サッカーの指導者といういろいろな顔を持っています。

そのそれぞれのシーンで体験したことを豊富に例に盛り込んで、やさしい語り口で書いてあるのでとても読みやすい内容となっています。

私は、娘が小2から中2の現在まで不登校で、親の会で「信じて、任せて、待つ」ということを教えられて、ずいぶん子どもと向き合うのが楽になりました。

この本では、子どもに指示しない、先回りして失敗を防がない、子どものいうことや態度を無条件に受け入れるということが何度も書かれています。


それは、カウンセリングでカウンセラーがクライアントに向き合う姿勢に通じているというところでなるほどと思いました。カウンセラーはクライアントが何も話さなくても、何を話しても、決して批判することはなく、心は全力でクライアントに向けてほとんど黙って寄り添います。 

自分自身カウンセリングで大きく立ち直った経験があるので、実感としてわかるのですが、「この人は絶対に自分を責めない」という人に心を預けることができることはとても心強く、対話を重ねるごとに「自分は本当はどうしたいのか」、「何がつらいのか」ということが自然に分かってくるのです。
そして、それを実行に移す勇気もゆっくりだけれど湧いてきます。 

カウンセラーの講座でイヌ・バラ法という傾聴訓練を体験しましたが、自分の考えをはさまず、ひたすら相手の話に耳を真摯に傾け、共感するというのはものすごく精神力を消耗します。
心を全力で相手に向けていないとできないから。

※犬・バラ法とはカウンセリングの研修などで用いられる「イヌ・バラ法」という手法を使い、話し手が犬やバラなどになりきって悩みを語るというロールプレイを行います。聴き手は「あいづち」「繰り返し」などの手法を用い、話し手の気持ちを受容する聴き方を練習します。


逆に、普通の会話のように「こうしたらよかったのに」、「私はこう思う」と口を挟まれるとしゃべる気がなくなってきて悲しくなるんですよ。それはもう見事に。


この本の中では、どうして親が子供を叱りつけてしまうのかという心理も分かりやすく解説してくれています。
ざっくりいうと、自分の心が楽になりたいからなんだということがよくわかりました。
子どもが失敗したりすると、自分の身にそれが起きたように感じてしまい、全力でそのダメージを防ごうとしてしまうんですね。 
不登校になった我が子を責めてしまうのも、自分が不安で仕方ないからなんだよなぁと深い反省を込めて思いました。 


あと、もう一つこの本の読みどころは、「家庭を子どもが心からホッとできる居場所にするとどうなるか」というところです。豊富な例のあとに最後に出てくるアイスクリーム療法は、なるほどと思いました。 


親も自分のしんどい気持ちを認めたらいいなと思います。
「これでいいんだろうか」という不安な気持ち、子どもと対するときに沸き起こるイライラした気持ち、それを否定されてしまうとたまりません。
「あ~、なんで子どもにこんな優しくしなきゃいけないんだろう」と腹が立つことがあって当たり前ではないかと。

そんな自分をそのまま認めてあげるのは、自分自身であり、足りない分は同じ悩みを持つ人と分かち合ったり、カウンセリングを受けるといいと私は思います。

この本の内容をできるだけ実践しているつもりの私も、親の会、支援者、カウンセラーなどがないと一人では立てませんから。


とてもいい本でした。
全力でおススメしたいです。 

発達障害の子どもの困難さがわかる本 その2

育てにくい子にはわけがある

「育てにくい子にはわけがある 感覚統合が教えてくれたもの」木村 順著 大月書店



前回の記事で書ききれなかった、この本を読んで、「そうだったんだ」と腑に落ちたこととを続けて紹介したいと思います。

「そうだったんだ」その2

感覚防衛

前のブログで紹介した子どもたちのいろいろな症状は「感覚防衛反応」といい、外界から入ってくる感覚刺激に対して脳が防衛体制をとってしまう反応なんですね。
こういう反応を取りやすい脳を持った人は、物音を怖がったり、初めて会う人、始めて行く場所、初めて入る部屋、初めて使う「物」などに強い拒否や怯えが出やすくなります。


「ボディイメージ」と「ラテラリティ」

ボディイメージというのは、例えば「体のの輪郭やサイズ」、「力の入れ加減」、「筋肉の緊張」、「姿勢の傾き」、「自分の身体の運動方向や加速度」といった前編で紹介した各感覚が教えてくれる生理的・身体的実感のことをいいます。
ボディイメージが未発達だと、まず「不器用」「動作がぎこちない」という状態になります。しょっちゅう体をぶつけたり、生活動作に手間取ったり、遊具や楽器がうまく扱えなかったりします。

そういう子は状況が予測できるようになると、初めから苦手な活動を嫌がったり、教室から飛び出して行ったりします。また、そこまででなくても新しい活動になじみにくく、取り掛かるのに時間がかかったりします。
そして、自分の心を守るために笑ってごまかそうとすることがあります。


また、「固有覚」や「平衡感覚」などのセンサーの働きには問題がないけれど、脳の中でそれをうまく交通整理する機能が弱いと、自分のボディイメージもうまく形成されず、運動の調節もできにくくなります。

ボディイメージはよく自動車の車体感覚に例えられます。
車体感覚がつかめないとS字カーブで脱輪したり、車を駐車するときにぶつけてしまったりと、うまく運転できませんよね。自分の身体の車体感覚がないってとても心細いと思います。 

左右の脳がそれぞれの役割を担えるようになった状態を「ラテラリティ」が発達したといいますが、この状態は、例えば右利きの子が右手で字を書いている間、左手は紙を押さえるという風に聞き手をカバーする役割をしっかりしてくれる状態のことをいいます。
それがうまくいかず、右手で字を書いていたら左手はだらーんとしている状態は、右脳と左脳がうまく役割分担ができていないということなのです。

「教育・保育・療育現場の方々へ」が素晴らしい

木村先生は、 「自己有能感というのは「絶対値」で、人との比較ではなく、自分自身が物差しの基準になっているものであり、そのためには基準になれるだけの「自分」が育っていなくてはならない。それは、「自分を『肯定的に受け止め』、自分を『励まし』、ほめる心の働き」だと書いています。 そして「自己有能感」を育てていくには専門的知識を持つ先生や職員の関わりが必要だと述べています。

発達的視点と療育的視点

発達は「○歳で○○ができるようになる」またはできないという見方だけではありません。
発達につまずきのある子どもたちは、「普通の教育環境だけでは、なかなか自分からチャレンジしていく力が弱く、経験の積み上げが進まない」という視点です。
いわゆる健常な子どもたちなら、いちいち特別な訓練を受けなくても、自分で歩行やことば、対人関係のつくり方を学んでいってくれるのです。

(中略)もし、「脳」に何らかのダメージがあると、「自己挑戦力」が弱くなってしまいます。その結果、発達の積み上げの空白が生じてしまいます。つまり、発達の「未学習」が生じ始めます。
さらに、「脳」のダメージは、「普通の教育環境だけでは、なかなか自分から学び直していく力が弱く、修正がききにくい」のです。

(中略)ダメージのある「脳」では、一度学んだ行動様式が固定化され、修正がききにくくなってしまいます。これは「誤学習」ということができます。「発達につまずきのある子どもたち」と「健常児」の境目は、ここにあります。
現在の教育は、「〇歳になったから○○をさせてあげよう」「指導要領では、〇年生で○○を教えることになっている」という発想にとどまり、「その子がそれをできることに、その子の人生にとってどれだけの意味のあることなのか」、「今のその子の発達レベルでは可能なことなのか」という観点を忘れがちで、ハウツーばかり追い求めることにつながりがちです。

療育的観点というのは、「『なぜ』、この子はまだお箸が使えないのだろう」「箸が上手に使えるようになるためには『どのような基礎的な発達』を積み上げておいてあげる必要があるのだろう」といった疑問に対する「仮説」を立てること、そのために「この子」の発達の状態を、できる限り詳しく読み取る」ことなのです。

発達につまずきのある子どもを対象にするときに、指導者には「その子に合った教科書」を作る力量が求められる。そして、その際には、指導者側の「思い込み」ではなく、根拠となる「評価」に基づいて「仮説」を立てることが優先されるアプローチ=「療育的視点」が不可欠なのです。


職員は親の立場には立てないし、立ってはいけない

それは、職員と親は対等ではないからです。

職員は嫌になったらやめることができます。
親は嫌になってもやめることはできません。

職員は給料をもらっています。
親は無給で育てています。

保障されている権利がそもそも違うのです。

義務については、親は無資格、無試験でなれるものであり、虐待さえしていなければ合格!と先生は書いています。


「楽しい」子育てと、「正しい」保育・教育・療育

親が楽しい子育てを模索する権利が保障されていることに対して、職員には、正しく保育・教育・療育をしていく「義務」があるということです。

親には、「自分の個性にあった、「自分らしい」子育てをして行く「権利」があります。

それに対して、「職員」には、目の前のこの子にとって、最も必要とされる課題を見出し、「正しい」指導を行っていく「義務」があります。
そのためには対象となる子どもの発達につまずきや遅れがある場合には、「発達的視点」や「療育的視点」が必要なことは言うまでもありません。
もし、それが重圧だと思われる「職員」の方がおられたなら、きつい言い方になるかもしれませんが、早々に「職業選択の自由」という権利を行使し、自分に合った業種に就かれることをお勧めします。
そのほうが、ご本人にとっても子どもたちにとっても幸せではないでしょうか。


私の感想

先ほど引用した言葉は本当に印象に残りました。 私も短い間とはいえ、保育士をしていた時期もありましたので。
自分にここまでの覚悟があったのかというと正直自信がありません。他人ごとではなくなった今ではまた違う姿勢で向き合えるとは思うのですが。

親支援についても、先生が親を指導しようとすることへの警鐘を鳴らしています。 「親は指導を受けに来るのではなく、サポートしてほしくて来るのです」という言葉は、全国の指導者と言われる方々にぜひ届けたい言葉です。

ほとんど引用だらけになってしまいましたが、これはほんの一部です。
通して読まれると、分かりやすく本当に心に響いてくる読みやすい本ですので、ぜひ実物を手に取って読んでみられることをお勧めします。

私も、自分のことや子どもについての謎がいくつか解け、どう進んでいけばいいかヒントをもらいました。
体験を積んでから読む本は、身に沁み込んでくるようですね。

発達障害の子どもの困難さがわかる本 その1

育てにくい子にはわけがある

以前書いた、「高所恐怖症の娘。感覚統合に問題があるみたい」の記事を書いたあとに、この本を読みました。
まさに目からうろこがボロボロ落ちる内容でした。

「育てにくい子にはわけがある 感覚統合が教えてくれたもの」木村 順著 大月書店



この本を読んで、「そうだったんだ」と腑に落ちたこととをまず紹介したいと思います。

「そうだったんだ」

触覚の二つの系統、原始系と識別系

人間は初めに「触覚」のうちの「原始系」を使って世界を把握していきます。
目も耳もない状態でエサを探すためには皮膚感覚の働きが頼りで、その名残は赤ちゃんの原始反射に見られます。
口の周りに何か触れるとその方向に口を向けたり、唇に何かがふれるとチューチューと吸い付いたりというおっぱいを飲むための反射ですね。
また、手足をつつかれるとパッとひっこめる反射や、背中の皮膚をこすると体をよじる反射は危険に対して瞬時に身構える「防衛・逃避」のための反射です。

それが生後半年もたつと、例えばポケットに手を突っ込んでコインだけ出したりという、触れたものの「素材」や「かたち」「大きさ」を振り分けたり、自分の身体のどの「位置」に触れているかなどを感知する「識別系」という働きを使い始めます。これはソフトタッチでは分かりにくく、ある程度の強さで握らないと識別できません。

それがうまくいくと「原始系」の働きは、「識別系」が発達していく中で抑制されて、普段の生活では見られなくなります。
人に肩を叩かれても「何?」と動じないでいられるのは、識別系が発達して認知的行動が本能的反応を抑制してくれるからです。
触られたらゾクッとしたり、振り払ってしまうのは、触覚の交通整理にトラブルがあり、「原始系」と「識別系」のバランスが崩れると、原始系を抑制しきれなくなってしまうからなんですね。
そういった人たちは、散髪、耳垢取り、歯磨き、爪切りを嫌がり、お風呂で体を洗ってもらうのも嫌がることがあります。衣類にこだわりが強いことも多いです。


また自分から触りに行くのは平気でも、人から触られるのは嫌がる傾向があります。特にソフトタッチは苦手です。 つまり原始的に危機を感じる行動をされるのが嫌なんだといえます。

そういう子どもたちは「アタッチメント」が成立しにくいので、心を通わせたり、情緒を豊かに育てるのはとても難しく、それを試みてくる親を避けてしまう行動も出てしまいますが、もちろん親には一切の責任はありません

「固有覚」

目をつぶって本を手の上に載せられ、増やされたら分かるというのは、「筋肉の張力の違いを感じ取ることができるから」なんですって!
そこの交通整理がうまくできないと、コップをドンと置いたり、お茶を入れるときにこぼしてしまったりと不器用になり、姿勢も崩れがちです。

「平衡感覚」

目をつぶって椅子に座り、誰かに身体を左右どちらかに身体を大きく傾けてもらいましょう。 体は傾きますが、頭だけはまっすぐに起こそうとするはずです。

これは、身体が傾けられた瞬間に地球の「引力」の方向がずれたことを内耳にある三半規管とくっついて存在する耳石器が感じ取り、脳の平衡感覚を受け止める回路に「頭が傾いたよ」という情報を送るからです。
その情報を「姿勢調節回路」が受け取って「筋肉の緊張レベル」を変化させて首の筋緊張を調節し、身体の傾きとは逆方向に頭を傾けて垂直にもっていったからできることで、こういう高度な働きを無意識に使っているのが「平衡感覚」です。

この回路のつながりがうまくいってなかったら、次のような特徴がみられます。

座っていても姿勢が崩れる、机に突っ伏す、床の上に寝そべりたがる、「つり橋」でひっくり返る、「棒登り」「逆上がり」ができないといった「不器用な状態」や「運動の苦手な状態」になります。


また「平衡感覚」は「眼球運動」とも密接な関係があります。 クルクル回っても目が回らない子がいますが、そういう子どもたちは動いているものを目で追うのが苦手だったり、人と目を合わせるのが苦手だったり、まなざしがきつかったりします。
字を書くのが苦手、本を読むときに同じ行を読んでしまったり、一行飛ばしてしまうということもあります。
「平衡感覚」を受け止める回路は、「自律神経系」や「情緒や情動」を司る回路にも大きな影響を与えています。たとえば、私たちの場合、揺れ刺激や回転刺激を一定量、一定時間、継続的に受け続けると、気分が悪くなってきたりします。
いわゆる「乗り物酔いの症状です。
これは、「平衡感覚」の刺激を受け止める脳の回路が、繰り返し入ってくる刺激のためにオーバーヒートしてしまうからです。

その際に「自律神経系」の影響が出て、悪寒や嘔吐、頭痛、血液の変動等をきたすのです。これらは、いずれも自律神経症状です。
また、「自律神経系」の働きは「情緒・情動」といった心的な快や不快と密接に関係していることはご存知のことと思います。
「情緒的・心理的」なストレスは「自律神経系」のバランスを崩しますし、反対に「自律神経系」の調子が悪くなると「情緒的」にも不安定になってきます。
平衡感覚を司る機関のことを「前庭」といいます。この「前庭」と「自律神経」の交通整理がうまくいかなくて、または「固有覚」の交通整理のトラブルもあると、ちょっとした揺れにおびえたり、慣れない姿勢を怖がったりします。

「揺れる器具で遊ぶのが怖い」「高いところに上るのが怖い」
という状態のことを「重力不安」「姿勢不安」といいます。


長くなるので、続きは次回アップします。 

「アスパーガール アスペルガーの女性に力を」 を読んで

アスパーガール アスペルガーの女性に力を

今回私が読んだのはこの本。



まず目次をご紹介します。
1.想像力、独学の力、サヴァン的スキル、並外れた興味
2.なぜ頭の良い女の子は学校を嫌うことがあるのか
3.感覚の過剰負荷
4.自己刺激行動と喜びの表現
5.自責と罪悪感
6.ジェンダーの役割とアイデンティティ
7.成熟と緘黙
8.魅力、デート、性、男女関係
9.友達関係、人付き合い
10.大学 
11.就職とキャリア 
12.結婚・同棲 
13.子育て 
14.儀式的行動・習慣、理論的な思考・字句通りの解釈、不愛想、共感、誤解の数々 
15.診断、誤診、投薬 
16.うつ、メルトダウン、PTSD、さらに薬について 
17.怒りのメルトダウン 
18.橋を焼く 
19.胃腸の問題と自閉症 
20.中年以降 
21.ASは障害か才能か。アスパーガールからアスパーガールへのアドバイス

親御さんへ

22.娘さんに与えるべきもの―信頼、受容、愛情、好意、そして支援 
23.親御さんの思いとアドバイス
かなり充実の内容でしょう?

この本の特徴

この本は自分自身がアスペルガー症候群である著者が、語りかけるような読みやすい表現でアスペルガー症候群の女性たちの力になれるように書いた著作です。
アスペルガーの女性の一生について触れており、幼いころから老年期まで豊富な体験談をはさみながら書かれています。

アスペルガー症候群を発見したハンス・アスペルガーは、研究対象を男性に絞っていました。
ですので、今でもアスペルガー症候群の判断基準は男性に出る症状が基準になりがちです。
男性と女性では特性に違いがあるので、女性のアスペルガーは誤診されやすいし、見逃されやすいのです。

私も42歳まで誰にも気づかれず、自分でも気づかず、「どうしてこんなに何もかもうまくいかないのだろう」とおもっていましたからね。


著者のルディ・シモンは、女性とアスペルガーと男性のアスペルガーの違いを明らかにすべきだと感じて、この本を書いたそうです。

日本でもこんな本が出るようになりました。




この記事
で少し触れています。

「アスパーガール」は外国の本なので、文化や考え方の差を感じることもあります。
だけど共感できる部分の方が圧倒的に多かったですね。

あと、この本ではアスパーガールは「高い知能と能力を持った人」とされています。
「いや、自分や娘はそんなことはないけど」というとき、ちょっと凹むかもしれません。
でも、不快感を感じるほどではないし、特にハイスペックでなくても十分参考になります。

ジェンダーの問題

この本は私が気になっていたことに見事に答えてくれました。
それはジェンダーの問題です。

私は子どものころから女の子らしくふるまったり、そういう服装をするのが大嫌いでした。
高校のころにメンズノンノやホットドックプレスに出会い、「これが私の求めていたものだ!」と思いましたね。
そういう服装に身を包んで、刈り上げてツンツン立たせた頭で町をフラフラしていると、時々女の子にナンパされたものです。
でも、女の子とは付き合いたいとは思わなかった。
恋愛対象は男だったのです。試してみたらイケたかもしれないけど。

娘も体が成熟していくことに嫌悪感を持っています。
特に胸が膨らむことが嫌でたまらず、「20歳過ぎても嫌なら手術してもいい?」と言われています。
それについてはまた別の場で語るとして、親子ともに似たところがあります。


「アスパーガール」によると、
  •  外見は女性であるが、実際は多くの両性具有的な特徴があるかもしれない。自分は男性と女性とが半々だと考えている人もいる。
  • 同性の友達が少ない。一緒に買い物に出かけたり、ただ、集まっておしゃべりなどをするような「女の子っぽいこと」はしない。
あと、化粧を嫌がったり着飾ることを嫌がる傾向もあるようです。
今の私もそうですね。化粧は嫌いな上に肌が受け付けないし、服は着心地重視です。 
 
セックスに関しては、社会の選択ではなく、自分の選択に従ってください。成人である限り、性的な嗜好は他人がとやかく言うべきことではありません。
私も同感です。

こうしたことまで、突っ込んだ見解がかかれているのもこの本の魅力ですね。

橋を焼く

最後にこの章に触れておきたいと思います。
私にも十分身に覚えがあることですが、人間関係や仕事先の倫理観などで怒りを感じたとき、怒りに任せて関係性を断ち切ってしまう傾向があります。

橋を焼くとはよく言ったもので、もう二度とその人たちのところとは関われないようなやり方(突然会社を辞めるなど)で関係を叩き切るのです。

この本では「橋を焼きたくなったとき、何を見るかではなく『どう見るか』なのです。陰口を言われたり、いじめられたり、利用されたりしてきたかもしれません。どうしたら機転をきかせて自分を擁護できるかを学んでください。」とアドバイスしてくれています。 

そのためにすすめているのは、こういう方法です。

出会った人たちについて覚えておくべき特徴を紙に書きだしリストにするのです。
例えば「Aさんはいい人だけど、嘘もつく。だから彼女のいうことを全部信じてはいけない」という風に。
すると、Aさんに嘘をつかれたことに気づいてもショックを受けずに済みます。
店や場所についても同様にできます。

こうすると、忘れっぽくても大丈夫だし、ショックも和らぎますね。 

それでもどうしても立ち去りたいときは、気まずくならないように礼儀正しく距離を置くことが大切です。
会社などはどこでまたつながるかわからないので、円満退職をモットーにしたいものですね。
人間相手が一番難しいんですけど。


かなりいい本だと思いました。
また繰り返し読みたいと思います。 

「ひきこもりの<ゴール>」を読んで

「ひきこもりの<ゴール>」ってどんな本?

私がこの本を買おうと思ったのは、タイトルにあります。

ひきこもりの<ゴール> 「就労」でもなく「対人関係」でもなく


この”「就労」でもなく「対人関係」でもなく”というところに惹かれたんですね。 普通はこの二つを「回復」の目安としているから。

この本の紹介文を引用します。
「仲間をつくれ」「働け」。
的はずれを含めた多くの批判にさらされ、
「回復」へと駆り立てられるひきこもりの<当事者>たち。
対人関係の獲得や就労の達成という「社会参加」とそうすることの意味の意味のはざまで、「なぜ働くのか/なぜ生きるのか」と彼/彼女らが抱いている不安や焦燥を、聞き取り調査を通して描き出す。
そして、「自己防衛戦略」や「存在論的不安」などの視点から、
<当事者>たちにとって「ひきこもる」とはどういう経験なのかを浮き彫りにする。
必要なのは<当事者>に共感することではなく、
むやみに「回復」をめざさせるのでもなく、
彼/彼女たちを理解することだと主張・提案する社会学の成果。
ひきこもりのゴール 「就労」でもなく「対人関係」でもなく

引きこもりの親たちの気持ち

不登校の親の会も高齢化が目立ち、当事者が30歳を超えているというケースが出席者の半分を占めることも多くなってきました。

「大学を出て就職したのに、やめてから引きこもって8年たつんです。せめてバイトでもしてくれたらいいのに。」

「中学から不登校で通信制高校もやめてしまいました。いまやっと清掃の仕事をサポートセンターの紹介で始めました。」

 引きこもったままの人もいれば、近所に外出できる人、バイトをしてはやめる人、いろいろな人がいますが、親の反応もいろいろです。

長い間親の会に通い、不登校時代からずっと経験している親は「親が本人の気持ちを受け止めるしかない」という意見がほとんど。これは長年の経験から得られたものです。
初めて来た人や、まだ事態に直面したばかりの人は「誰かに説得してもらって、なんとか外に出さなくては」と、親自身が「誰かに助けてほしい、引っ張り出してほしい」という気持ちを持った人が多くみられます。

私は中2で不登校、引きこもりの娘を持つ親として、「これは決して他人ごとではない」といつも真剣に聞いていました。 ですが、自分自身が発達障害を持ち、仕事に何度も挫折して、今は休養中の身。
本当に就労や居場所にたどり着くことがゴールなのか、この本を見て引っかかったのです。

社会の価値観がひきこもりの人たちを追い詰める

いまの社会は普通に働いている人にも厳しいです。通勤地獄、できない人を容赦なく叩きのめすことをよしとする空気、リストラ、ブラック企業・・・。だからこそ「自分は世間並みに頑張っている」という人は、「頑張っていない人」をそれはもう痛烈に批判します。
不登校、ひきこもりの人が父親とうまくいかないのもここにあるでしょう。

ひきこもりやニートに、どうして自分が払った税金で支援しなければならないのかと考える人は多いです。
”ひきこもっている人の方が自分より楽をしているのではないか、という「相対的剥奪感」である。(中略)それは経済的・精神的に厳しい状況に個人を追い込む社会や、働いて稼いでいるかどうかで人間の成就度合いを計ろうとするような価値規範に由来しているということに気をつけなければならない。
本来批判されるべきは、個人に生きづらさを強いる社会の在り方そのものである。
本人たちもよくわかっていて、「これからどうするの?」と言われることをとても苦手に思っています。
「何やってんの?って聞かれて、いや、遊んでるよって(笑)そういう風に言えちゃうような人だったら引きこもってないんじゃないかな」

ひきこもっている本人は(略)何とかこの状態から脱却したいと思っています。でもどうしたらいいかわからないし、これ以上傷つかないために、仕方なく引きこもり続けているのです。
自分の過去を包み隠さず話そうとする、嘘がつけない人たちは、世間の目を分かっているからこそひきこもるしかないということです。

ひきこもりのゴールとは?

これを書いてしまうと完全なネタバレになってしまうので書きませんが、この当事者の言葉を引用したいと思います。
ここで決めよう、と思ったのね。生きていくか、やめるかをね。
で、生きていくのだとしたら、その、当時あたしが怖かった、人を傷つけるとか、人から傷つけられるっていうことが、その頃ものすごく怖くって、でも生きていくってことはそれを引き受けていくってことなんだと。
で、それを覚悟しゃきゃいけない。で、それができないのならば、もうここで終わろうと、思って。
それがやっぱり、決めたんだよね。自分のなかでやっていくっていう方をね。どうしてそういうふうに思ったのか、わかんないだけどさ。(略)なにかこう、はっきりと決めたよりは、心の奥の方で静かに、そのとき決めたっていう感じかなー。
この本は、著者の博士課程論文がベースになっていて、何年もかけて集めた当事者の生の言葉がたくさん出てきます。

だからこそ、最後の結論も納得できたし読みごたえがありました。
Twitter プロフィール
42歳でアスペルガー、46歳で加えて注意欠陥障害と診断される。娘はアスペルガーで小2から中3まで不登校を通した末、今春から通信制サポート校に入学。「小学生で不登校!?」ってブログやってます。
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