りさは2年生になり、大学出たての新任の男の先生が担任になりました。
それと同時に私は保育所に正社員として就職が決まり、シフト勤務に追われるようになりました。
晩御飯に間に合わず、実家で食べてもらうことも多くなり、疲れているのでゆっくり構ってあげることができなくなっていました。
また、夜や休日も保育運動や会議で出なければいけないことも多く、実際に家でゆっくりできるのは少なかったです。
りさは学童保育が嫌らしく、相変わらず行きたくないとぼやいていました。
1年の終わりから2日ほど欠席したり、朝、しんどがることが増えてきたので、ひょっとして仮病?と初めて思ったのは、1年の2月のこと。
2年の5月からは月曜日か火曜日に休むことが増えてきて、1学期で10日欠席しました。
様子もおかしくなってきていて、夜の会議の時、実家で「オデコが痛い、ママ~!」と泣いていたり、「帰ってきて」と電話をかけてきたり、休みの日に私が出かけるのを嫌がって、クーラーとテレビのある部屋を締め切って二人で閉じこもりたがることが増えました。
夏休みに入って、8月初めに宮城県に勉強会に行くことが決まっていたのですが、7月終わりから「もう学童にはいきたくない」と行かなくなり、その様子を精神科医に話すと、「すぐに小児神経科の先生の診察を受けなさい」といわれました。
そこで、地元では有名な病院の思春期外来などをしている先生に診察を受けることになりました。
診断は、「分離不安、神経症」でした。
仕事と家庭のどちらをとるかという話になり、今年中は、朝送り出し、学童には行かせずに家で迎えてあげる生活をして欲しいと言われました。
学童は児童60人に指導員5人などといった状況なので、きめ細かく子どもを見てもらえないから、ファミリーサポートセンターやシッターさんに頼んだほうがいいとも言われました。
とりあえず勉強会は取りやめ、病院に行った次の日に職場と相談して休職することになったのでした。
このときもまだ、私はりさが学校へ全く行かなくなる日が来るなんて思わずにいたのです。
りさ1年生の頃へ→
それと同時に私は保育所に正社員として就職が決まり、シフト勤務に追われるようになりました。
晩御飯に間に合わず、実家で食べてもらうことも多くなり、疲れているのでゆっくり構ってあげることができなくなっていました。
また、夜や休日も保育運動や会議で出なければいけないことも多く、実際に家でゆっくりできるのは少なかったです。
りさは学童保育が嫌らしく、相変わらず行きたくないとぼやいていました。
1年の終わりから2日ほど欠席したり、朝、しんどがることが増えてきたので、ひょっとして仮病?と初めて思ったのは、1年の2月のこと。
2年の5月からは月曜日か火曜日に休むことが増えてきて、1学期で10日欠席しました。
様子もおかしくなってきていて、夜の会議の時、実家で「オデコが痛い、ママ~!」と泣いていたり、「帰ってきて」と電話をかけてきたり、休みの日に私が出かけるのを嫌がって、クーラーとテレビのある部屋を締め切って二人で閉じこもりたがることが増えました。
夏休みに入って、8月初めに宮城県に勉強会に行くことが決まっていたのですが、7月終わりから「もう学童にはいきたくない」と行かなくなり、その様子を精神科医に話すと、「すぐに小児神経科の先生の診察を受けなさい」といわれました。
そこで、地元では有名な病院の思春期外来などをしている先生に診察を受けることになりました。
診断は、「分離不安、神経症」でした。
仕事と家庭のどちらをとるかという話になり、今年中は、朝送り出し、学童には行かせずに家で迎えてあげる生活をして欲しいと言われました。
学童は児童60人に指導員5人などといった状況なので、きめ細かく子どもを見てもらえないから、ファミリーサポートセンターやシッターさんに頼んだほうがいいとも言われました。
とりあえず勉強会は取りやめ、病院に行った次の日に職場と相談して休職することになったのでした。
このときもまだ、私はりさが学校へ全く行かなくなる日が来るなんて思わずにいたのです。
りさ1年生の頃へ→