小学生で不登校!?~大人と子どもの発達障害~

小学校2年生で不登校になり、3年生で支援学校に一時転籍、そこでひどい体験をして元の学校に籍は戻ったものの、それっきり一度も登校していない娘(現在中3)と、42歳にして娘とともにアスペルガー症候群と診断、46歳でADD(注意欠陥障害)も加わった母の道のり。

2012年10月

小学2年1学期

りさは2年生になり、大学出たての新任の男の先生が担任になりました。


それと同時に私は保育所に正社員として就職が決まり、シフト勤務に追われるようになりました。

晩御飯に間に合わず、実家で食べてもらうことも多くなり、疲れているのでゆっくり構ってあげることができなくなっていました。

また、夜や休日も保育運動や会議で出なければいけないことも多く、実際に家でゆっくりできるのは少なかったです。


りさは学童保育が嫌らしく、相変わらず行きたくないとぼやいていました。

1年の終わりから2日ほど欠席したり、朝、しんどがることが増えてきたので、ひょっとして仮病?と初めて思ったのは、1年の2月のこと。

2年の5月からは月曜日か火曜日に休むことが増えてきて、1学期で10日欠席しました。


様子もおかしくなってきていて、夜の会議の時、実家で「オデコが痛い、ママ~!」と泣いていたり、「帰ってきて」と電話をかけてきたり、休みの日に私が出かけるのを嫌がって、クーラーとテレビのある部屋を締め切って二人で閉じこもりたがることが増えました。


夏休みに入って、8月初めに宮城県に勉強会に行くことが決まっていたのですが、7月終わりから「もう学童にはいきたくない」と行かなくなり、その様子を精神科医に話すと、「すぐに小児神経科の先生の診察を受けなさい」といわれました。

そこで、地元では有名な病院の思春期外来などをしている先生に診察を受けることになりました。

診断は、「分離不安、神経症」でした。


仕事と家庭のどちらをとるかという話になり、今年中は、朝送り出し、学童には行かせずに家で迎えてあげる生活をして欲しいと言われました。

学童は児童60人に指導員5人などといった状況なので、きめ細かく子どもを見てもらえないから、ファミリーサポートセンターやシッターさんに頼んだほうがいいとも言われました。

とりあえず勉強会は取りやめ、病院に行った次の日に職場と相談して休職することになったのでした。


このときもまだ、私はりさが学校へ全く行かなくなる日が来るなんて思わずにいたのです。


りさ1年生の頃へ→

登校拒否を克服する会に行ってきた

学校から遠ざかるにつれ、学校関係のママ友とも話が合わなくなり、同じ悩みを持っているたちとつながりたいと思うようになって、親の会を探していました。

すると、偶然ハーブカフェの店長さんが、親の会の世話人をしている先生と知り合いだということが分かり、紹介してもらうことになりました。

連絡がつき、初めて大阪市内で開かれている大規模な集いに行ったのが、去年の秋だったでしょうか。
最初に専門の先生の講演があって、そのあとテーマごとに分かれて少人数で話し合うという形でした。
公演もすごく参考になったし、少人数の話し合いではお互いの体験談を話し合ったり、元不登校だったという当事者の若い人も子どもの気持ちを語ってくれ、とても得るものが多かったです。

この会は全国規模であるのですが、地域交流会も盛んで、大阪の中でもたくさんの地域に分かれて、さらに小規模な交流会があります。
それに今日は行ってきました。

地元のコミュニティーセンターの会議室で親の会があって、参加者各自が話したいことを話します。
そこには教育相談室の先生もいて、先生方にアドバイスをもらえることもあれば、同じ体験をした他の親にも「うちの場合はこうだったよ」とか、いろんな意見が聞けます。そこからまた話が発展して、みんなで経験の出し合いになることもあります。

人数も少ないので、お茶菓子を食べながらくつろいだ雰囲気で、ほかの親の話を聞けるのでとても励まされます。

その間、別室では子どもたちが自由に過ごすたまり場も開かれて、毎回楽しみに通ってきている子達がいます。長い引きこもり時期を抜け出して、顔を出せるようになった子もいて、みんなすごい苦しみを味わっただろうに、彼らはとても優しいです。この子達を見ていると、「うちも大丈夫」って思えます。

終わってからは近くの喫茶店でおしゃべり。また違った雰囲気でお互いのことを話し合って、笑ったり、真剣になったりと貴重な時間を過ごしました。

当事者にしかわからないことが、不登校の問題でもとても、とてもあります。
経験していない人には、どうしても伝わらないことがあるのです。
そんななかこうした集まりは本当に心が救われます。


登校拒否・不登校問題 全国連絡会

ここにアクセスすれば、どこで親の会をやっているかわかります。
ここの系統のほかにも親の会はいろいろありますので、自分に合うところに参加できればいいと思います。

児童扶養手当のその後

ずっと前に書いた児童扶養手当の話の顛末です。

私はシングルマザーなんですが、児童扶養手当をもらいだして5年目。
働いていないということで、手当を半額にするという通知を受け取って大慌て。
役所に相談することにしたのですが・・・

市役所に相談に行って、「子どもが不登校でずっと家にいるんです。精神的に不安定になる時もあるので、主治医からも今は外に働きに行かないように言われてるんです。」と訴えました。

すると、「何かおうちでお仕事をされていませんか?」との返事。

「まぁ、パソコンで内職してますが、1万ちょっとくらいしかもらってませんよ。」

「証明できるものはありますか?」

「業務委託なので、契約書はありますが、給与明細はありません。」

何度もやりとりの途中で上に相談していた職員さんは次にこう言いました。

「それじゃ、仕事を探しているという証明書を渡しますので、ハローワークでちょっと仕事の検索をして係りの人に書類を渡してください。すぐに書いてもらえますから。」

どうやらそれしかないようだと諦めて、言われた通り書類を用意して再度役所に行きました。

あっさり受理され、どうも納得いかない気分の私は、職員さんに聞いてみました。

「私みたいなケースの人はみんなどうしてるんですか?」

「不登校は病気として認められていませんし、介護が必要な要件にも当たりません。だから、そういう場合あなたと同じようにしてもらっています」

なんだかなぁ。もし、支給要件がもっと厳しくなったらどうなるんだろう。
そう思うと不安になりました。

それと、学齢が低いうちに不登校になったうちみたいなケースや、発達障害の子をもち、一人にしておけないから働けないなど、役所にしたらイレギュラーなケースの私たちのことを認知する気もなさそうな対応も残念でした。

不登校のかすかな兆し

りさが完全に学校に行かなくなったのは小2の3学期からですが、初めにあれっ?と思ったのは小1の3学期でした。


私はりさが3歳の時から外で働いていて、彼女は3歳になると同時に保育所に入りました。

資格取得のためにいったん仕事を辞めたのは年長さんの時、それからしばらく学校に通って、りさが小学校に入学するときには家にずっといました。


そして、念願の資格が取れてまた働きだしたのがりさが小1の3学期からでした。

1月という中途半端な時期に学童保育に入れたせいか、学童に友達はたくさんいたけれど、当番制とか自由に行動できないことに戸惑って、「当番の仕方がわからないから行きたくない」と行っていました。

時々は母に頼んで休ませたりしていたのですが、習い事に行くのも時々嫌がるようになりました(週1の習字だけだったんですが)。

「しんどい」と言い始めたのもこの頃です。


学校では結構いじめられていました。

屈託がなかった彼女は、同じ私立幼稚園で固まっているグループの中に飛び込んでいって、そのリーダーにだいぶいじめられました。「りさちゃんと遊んだらダメ」と他の子に言ったり、遠足のとき「こんなおやつ持ってきたらあかんのに」といわれて、何も食べずに泣いていたこともありました。

他の子にも、遊びに行っている時に急に家から追い出されたりもしてました。


そのたびに連絡帳で担任の先生と連絡を取り合っていたのですが、「子ども同士の話し合い」というのは先生が思っているほどうまくいってなかったようです。かえって恨みを募らせていただけでした。


りさは、こうした思い出をくっきりと覚えていて、忘れることができないでいる。

それがわかったのは、ようやく色々話してくれるようになった4年生になってからでした。


小学2年1学期へ→
Twitter プロフィール
42歳でアスペルガー、46歳で加えて注意欠陥障害と診断される。娘はアスペルガーで小2から中3まで不登校を通した末、今春から通信制サポート校に入学。「小学生で不登校!?」ってブログやってます。
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