小学生で不登校!?~大人と子どもの発達障害~

小学校2年生で不登校になり、3年生で支援学校に一時転籍、そこでひどい体験をして元の学校に籍は戻ったものの、それっきり一度も登校していない娘(現在中3)と、42歳にして娘とともにアスペルガー症候群と診断、46歳でADD(注意欠陥障害)も加わった母の道のり。

9年ぶりに娘と服を買いに行きました

金曜日に娘と一緒にショッピングセンターへ服を買いに行きました。

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正直言うと、こんな日がくるなんて信じられませんでした。

ほとんどの時間を引きこもって過ごし、感覚過敏のため着古して穴が開いたTシャツとクタクタの短パンばかり着ていた娘。新しいTシャツを買ってきても「なんだかスーツを着ているみたいで落ち着かない」とすぐに脱いでしまいます。

長袖のTシャツは大嫌いで「腕から下に布があることが許せない」。
長ズボンも太ももから下に布があるのが嫌みたいですが、冬はゆったりしたシルエットで肌触りのいいものなら外出時のみ履けていました。

ちなみに冬の上着はおばあちゃんから譲り受けたフリースをTシャツの上から着て、その上にやはりおばあちゃんからもらったダウンを着る、それ一択。室内では暖房を効かせてTシャツ短パンにインド綿のストールを巻き付けるのみ。

ちなみに靴下は履けませんし、靴も草履かサンダルタイプのものしか受け付けません。

だから、服を買うといっても娘が気にいったものと同じものを私が探して買うだけ。
何が気に障るかわからないので「返品可」かどうかは必ず確かめてから買っていました。
タグや縫い目、フィット感など細かくこだわりますので。あと意外と色とデザインも。


ところが、今年に入って外出する機会が多くなり、電車に乗って出かけることも多くなった娘。
学校へも週に1度は通い、近所を散歩することも増えてきました。

すると今までは全く身なりにかまわなかったのに、いつのまにかボロボロのTシャツは着なくなり、お風呂にもほぼ毎日入り、着たら放置していたフリースを洗濯してほしいと頼むようになってきました。

そしてついに、外出用の服を買いそろえるため買い物に行くことになったのです。
「服を買いに行ったほうがいいと思うよ」という私の言葉に同意するとは!


何もかも揃っている大型店で、買いそろえるアイテムだけ私が提案しました。
すると、娘は自分で商品を見て鏡に服を当ててみて選んでいるではありませんか。
あんなに見た目に興味がなかったのに。

試着室に思わず一緒に入ろうとして娘に「なんで?」と言われた私はまだ娘を小さい子扱いしていたのですね。謝って外に出て着替え終わった姿を見せてもらいました。
肌触りが悪いものや違和感があるものはばっさばっさ切り捨てていましたが、決断も早いし大したものだと思いました。

本当にうれしかった。


買い物が終わってからはフードコートで食事をし、娘はその上にアイスも食べました。
このごろは安定して外で食事もできるようになっていて、その点でもすごく成長を感じています。

これから何回か娘の最近の変化とその考察を書いていけたらと考えています。

中学には一日も出席しなかったけれど

中学を卒業して丸一年がたち、娘も無事通信制サポート校の2年生になりました。
このごろ調子も良く、週1回は勉強しに一人で学校に通い、一人で散歩にも出かけたりしています。


彼女は小2から不登校状態となり、色々あった末に小3の2学期から完全に行かなくなって、小6の時点で中学には通わないことを選んで制服も購入せず、本当に一日も出席することなく中学校を卒業したのです。

そのあたりのお話は「学校との関わり」カテゴリを読んでいただくとわかりやすいかと。


昨日、中2中3と担任だった先生が会いに来てくれました。
新卒から4年務めたけれど家庭の事情で退職するので、最後にあいさつしたかったと言ってくれまして。


娘は学級通信やプリントを持って訪ねてくる1年の時の担任のことは拒絶して「もう来てほしくない」といいました。それで訪問は遠慮してもらっていたのですが、2年生になって担任が変わり、新担任(昨日来てくれた先生)が「家庭訪問に来たい」と打診してきたときは「来てもらってもいいよ」と謎のOK。女性だったというのもあるのかな?

なにかファーストコンタクトで感じるものがあったのか、その先生のことは拒まず、何度か家庭訪問していただきました。

なかでも思い出深かったのが、マンツーマンでの調理実習。
一度目は娘が作りたいと言ってみせたレシピでパン作り。
二度目は学校でやったという豚の生姜焼き、キャベツの千切り、ほうれん草の味噌汁作り。
どちらも娘は本当にうれしそうで、楽しそうで。
作り終わったあとは3人で食卓を囲んで美味しくいただいたことも、親子ともに楽しい思い出として残っています。

結局、娘が心を開いたのはその先生と、もう一人特別支援コーディネーターの先生の二人だけ。
卒業式も自宅に来てもらったのですが、担任の先生を車に乗せてきた先生も入ってもらっていいか聞かれたら真っ青な顔をして拒んでいました。(乗せてきた先生にはいったん帰ってもらいました)


昨日は先生が来ると聞いて、卒業の時にクラスの皆が先生にプレゼントしたのと同じものを用意した娘。
「去年は渡せなかったから」と最後に渡したらすごく喜んでくれました。

私は「今から思うとこの子は自分を守るために学校に行かなくなったんだと思います。もし、無理に行かされていたら命があっただろうかと思うんです。そういう意味でも生命力が強い子です。
先生が寄り添ってくれて登校刺激もしないでくれたから、安心して学校とのつながりを感じつつ自宅でゆっくり過ごすことができました。その日々が今につながっているんだと思います。」と心からお礼を言いました。

先生は「あかん、泣きそう」と目を潤ませていました。

こうして最後に会いに来てくれたことを私たち親子は忘れないでしょう。
一日も出席しなかったけれど、大事な中学時代の思い出として。

世界自閉症啓発デーによせて2019

お久しぶりです。
全然純粋ではない発達障害者のヨーコです(笑)。

いや、いま世界自閉症啓発デー公式サイトを見てきたのですが「自閉症の人たちは私たちが見失ってきた純粋さを持ち続けているのです」のくだりが笑えてしまいまして。


私がASD(自閉スペクトラム障害)とADHD(注意欠如多動障害)と診断されたのは42歳のときでした。

子どものころから思ったことはダダ漏れで独り言が多く、一人公園で延々としゃべり続けるさまは気味悪がられていたそうですがそれがおかしなことだとは露ほども思いませんでした。
幼稚園も小学校もなんだか周りとうまくいかず「なんだかおかしいな」と違和感を抱きつつも不登校をする勇気もなく漫然と中学に進学し、高校でついにプチ不登校になったものの出席日数ギリギリで卒業し、大学では比較的のびのびと楽しく過ごしました。

とにかく人に命令されるのは大嫌いで気に入らない教師には殺意さえ抱いてましたし、自分が必要ないと思ったら授業にも出なかったし、キレたら友達にでも物を投げつけるという勝手気ままな思春期でしたね。マイルドにはなったけどそのあたりは今でも変わりません。物は投げない。

でも、「この人のいうことは筋が通っている」と判断したらその人のいうことには従いますし、基本的にとても真面目なので勉強もそこそこ結果が出たし、バイトでもミスをしまくっても見逃してもらえてました。


本格的に世の中と折り合いが悪くなったのは就職してからでした。
バブルがはじけて大不況のなかやっと見つけた仕事もだいたい1年くらいしかもたないのです。
最初の3カ月はいいのですが、そのあとから「成長がみられない」「仕事の覚えが悪い」「何度注意しても改善しない」と上司からは見限られ始め、仕事仲間の主に女性からはなぜか嫌われる(今から思ったらコミュニケーションの下手さと仕事の出来なさが原因だったと思う)ようになるので、いたたまれなくなって自分から辞めるかクビになるかを繰り返してきました。

結婚もうまくいきませんでした。
「他人に合わせて過ごす」という生活はしんどかったし、色々不満があっても言いたいことがうまく言えず、勇気を出して言ってみても言い返されたら会話のテンポが遅いので絶対に負けちゃうんです。
それでも分かり合うことをあきらめずにいれたなら違ったかもしれませんが、友達ともまともにケンカできなかった私には夫婦を続けることはあまりにも荷が重かった。

本当に、ほんとうにコミュニケーションが苦手なのです。どうしようもなく。


シングルマザーになって一人娘と暮らしはじめ、やっと生活が落ち着いたと思ったら、まさかの小2で不登校。怒涛の日々を経て娘がASDと診断され、それがきっかけで私もASDと診断されて。(その4年後専門の病院でADHDでもあると診断されました)

そのときは「ああ、よかった!今までうまくいかなかったのは自分が悪いわけじゃなかったんだ。障害のせいだったんだ!」と無邪気に喜びましたよ。
だって、いくら真面目に頑張っても頑張ってもうまくいかず、「私の頑張りがまだ足りないのだろうか?」「私はバカなのではないだろうか?」と真剣に悩んでいましたからね。

診断されてからも相変わらず障害を隠したまま働いていたのですが、45歳の時の職場でカミングアウトする羽目になり、それでも同僚に「私たちと一緒でしょう?」「ただの個性よね」と言われ、上司からは「君の能力では契約更新は無理だろう」と宣告されたときに心がポッキリと折れました。


「もう無理だ」
「障害者として生きよう」


そう決意して、障害者職業センターに通ったりして訓練を受けながら、ヘルパーさんに家事支援に入ってもらうようになりました。
24歳で発症した神経症などの精神疾患が治らず長年通い続けた病院も、発達障害に詳しい医師がいるところに転院。先生は「どうして今までこんな薬が出ていたんだ!」と大きく薬の内容を変えました。
ずっとうつ病と診断されていたのですが双極性障害だったそうです。
神経症から始まった一連の精神疾患は発達障害の二次障害だったんですね。


発達障害についてSNSで当事者の人とつながったり、親の会に行ったり、講演に行ったりと理解を深めていくうちに、ゆっくりと心の中が絶望へと向かっていきました。

訓練を受けているときにもわかったことなのですが、これだけ長い間社会人をやっていると「この仕事はこの部分で必ずつまづくだろう」ということが分かってしまうのです。
「それならこんな工夫をしたらいいじゃない」、「こういう配慮を求めたらいいじゃない」もう一人の自分が言います。
でもさらにもう一人の自分が「現場ではそんなにうまくいかないよ」、「配慮?周りが理解してくれるとでも思っているの。そんなに甘くないわ」と言うのですよ。
後者の自分の方が経験に裏打ちされているだけにね、説得力があるのです。
しかも伸びしろがある若い人と違い、もう50近くの障害持ちのおばちゃんを本気で欲しがる人がいるのかと思うと、まぁ萎えてしまいまうわけで。

あと、一番大きいのが
「もう一度同じような目に会ったらきっと私は立ち直れないだろう」
という確信。

正直に言うともう働くのが怖い。



だから今の私には前向きなメッセージを発信することができません。
でも、こんな風に考えている中高年発達障害当事者がいるということを知っていただけたらと思います。
Twitter プロフィール
42歳でアスペルガー、46歳で加えて注意欠陥障害と診断される。娘はアスペルガーで小2から中3まで不登校を通した末、今春から通信制サポート校に入学。「小学生で不登校!?」ってブログやってます。
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